お別れ会にお出で頂きありがとうございました。

ご挨拶

本日は母 本庄ちゑ子の「お別れの会」にご参列いただきまして誠にありがとうございました。母は令和4年12月23日に旅立ちました。95歳でした。昭和2年1月26日に生まれ、実母が腸チフスのために亡くなったので4人の弟妹の母代わりとしての青春時代を過ごしました。時は戦時中、勤労動員や東京大空襲を経て終戦を迎え、専門学校(今の大学)を卒業し小学校・中学校・高等学校の教員を経て結婚。父 卓は学徒出陣で出征し終戦後シベリアに抑留され、復員して母と結婚し二児を得ました。母は洋裁で身を立て、テレビの人形劇の人形の洋服を作ったり「お話の会」に参加して紙芝居の読み方や素話の仕方などを勉強していました。そして市川に居を求め、真間山幼稚園に求められ務めさせていただきました。

その後昭和43年、国分幼稚園を創立し五十年余り園長・理事長として子どもとの生活を楽しんでおりました。理事長退任後もお誕生会の色紙作りや子ども達の毛糸製品のまとめ等、間接的に子どもと関わっておりました。

少々歩行が危なくなったので室内でシニアカーを押しながら歩いており、週1回の入浴介護を受けていましたが、それ以外は自力で生活し夕食のみ我が家から運びましたが、少々柔らかく煮る等の配慮で常食を食べておりました。12月21日夜2時半「ちょっと来て」と階下より母の声。行ってみると吐血。翌朝救急車にて国際医療福祉大学市川病院(旧科研病院)に搬送されました。救急車に乗り込む前に「こんなに吐血するには胃ガンか胃潰瘍にちがいない。今度こそ覚悟してね。」と言いました。入院後、検査をすると胃の幽門部に大きな胃ガンがあり、食物が腸に行くのを阻んでいたそうで、通管をしたところ再び吐血し、その一部が肺に入り、一時呼吸が止まったの事でしたが、救命治療で小康状態を保っていました。「痛い?」「ウ~ン」「苦しい?」「ウウ~ン」とどちらでもない様子でした。翌日医師より治療計画の相談をされましたが、母は延命治療を拒んでおりましたので、その旨を話しました。「今は小康状態を保っていますが年齢的に何時何があってもおかしくないので会わせたい方がいたら会っておいてください。」とのことで、孫やひ孫が面会。最後、弟が帰る際「また明日来るね」に「もういいよ。」と言ったそうです。翌朝病院より「心電図の様子が変わったのですぐ来てください。」とのこと。弟と二人で行くと、すやすやと、とても穏やかな母。弟と両手を握り励ましたりお礼を言っているうちに9時31分旅立ちました。眠るようにとはこのことで、どのように生きればどのように旅立てるのかを教えてくれた母でした。実は、11月25日に父の十七回忌をしました。その時墓前で「まだお迎えに来ないでね。もう少し待っててね。」と頼んだのですが、待ち兼ねた父が迎えに来たのでしょう。

生前、皆様にいただいたご厚情に感謝いたしますと共に、丁度百ヶ日忌にあたります本日、母の思い出話等をしていただけましたら良い供養になると存じます。   令和5年4月1日 国分幼稚園 園長・理事長 鈴木敬子

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